「時間を巻き戻して、子どもの頃にかえしてさしあげます。子どもの頃なら何歳の時でも。」
あるとき、魔法使いが目の前に現れてこんな願いを叶えてくれると言ってきました。
「まじですか!じゃあ9歳の頃に戻りたいっす!」と、この話にのりますか?
それとも、
「いえ、結構です」と断りますか?
わたしの返答は
「とんでもない!やっとおとなになれて幸せなのに、子ども時代に逆戻りなんて!」
です。
齢30、いま、わたしは(曲がりなりにも)おとなで本っ当に幸せ!と感じています。
だって、自由だから!
大好きなイチゴを3パック、一度に平らげようとも自由!
夕食の前にお風呂でも、お風呂の前に夕食でも自由!
イヤなことを選択しなくても、自分の保護者であるおとなから「やりなさい」やら「やらないと〇〇だよ」と圧力をかけられることもない。
わたしにとって、おとなになってから(高校を卒業してから)”やらなくてもいい自由”に気付いたのは、
もう体育の授業で大っ嫌いな長距離走を走らなくてもいいって幸せ!を発見した時です。
しかも「あの…お腹が痛いんですけど…」と嘘をついて『体育の授業、1時間見学の権利』を得る努力すらしなくともよい!
マラソン大会もない!
最高ーーー!
強制はなし。禁止もなし。
もちろん、責任を取るのも自分だけど、自由には代え難い!幸せ!
おとな、子ども、自由なのはどっち?
「おとなになって自由だ」なんてことを言うと、この人はどれだけ決まりの多い&キビしい家庭に育ったのだ?という感じもありますが、わたしの生まれ育った家庭は割と自由にさせる方針だったように思います。
習い事も強制的に通わされることはなく、わたしが「バレエをやってみたい」と言った時には
母は早速バレエ教室の情報を得て、あるバレエスタジオに見学に連れて行ってくれました。(結局バレエを習うことはありませんでしたが。)
『自由』の意味はここではやりたいことを、やりたい時にできること。他の存在からの強制や拘束がないこと。とします。
わがままや横暴とは分けて考えます。
高校生のときに決めた進路だって最大限に尊重してくれたうちの親。
初めての一人暮らしの部屋だって、
周りの女友達は大学進学で一人暮らしを始めるとなったら不動産屋さんに親が付き添い、「女の子の一人暮らしだから安全を優先」とオートロック付きのマンションを契約。
一方、わたしがどこかの冊子の広告を頼りに一人で訪ねた不動産屋さんは池袋の雑居ビルの一室。
内覧もわたし一人で行った(不動産繁忙期のため短期で雇われたアルバイトっぽいお兄さんも一緒です)。
わたしが独断した部屋に住むため必要書類を親に連絡し、自分で手続きをした。
そんな、どちらかといえば放任主義の親に育てられたわたしでも、
それでも、
子ども時代は自分で決められない項目がおとなの今よりもずっと多い!と感じます。
例えば、
- 食事の量、タイミング、回数
→おとなは1日二食だって、少しずつ6回に分けて食べたって、本人が快適なスタイルでOK!
昼食をたらふく食べたら夕食は軽め、だって自由自在。朝昼晩の1日3回とは誰が決めたんだ? - 触っていいもの、ダメなもの
→おとなは自分が超人になったという自己暗示のもと、興味本位で火にかけたフライパンに触れようが自由。
その結果火傷をしようが自己責任。(火傷をしたら程度に合わせた適切なケアを。ひどくなければ流水で15分ほど冷やしましょう。決して氷や保冷剤で冷やさぬよう) - 学校給食のときの飲料は牛乳のみ(アレルギーや乳糖不耐症でなければ)
→おとなはお水でも、温かいお茶でも好きなものが飲める!
給食の牛乳と白米の組み合わせ、イヤだったな〜〜 - 寝る時間
→おとなは連続ドラマ、シーズン6まで一気観して睡眠時間ゼロだろうが自由。
次の日、睡眠不足でどうなっても自己責任。
いつになったら、この自由は許されるのかな?
おとなになるまで待たなければならないことなのか?
じゃあ、「おとな」になるタイミングっていつ? 飲酒が合法になる20歳?選挙権が得られる18歳?
アメリカでは21歳から飲酒が合法となる州が多いらしい。韓国では19歳。ドイツやフランスでは16歳から!
脳が全体的に発達するといえるのは、少なくとも20代半ばで30代の可能性もある、という専門家の意見も。(参考:
“At What Age Is The Brain Fully Developed?”)
おとなの定義すらはっきりしない。
いったい、いつから全てを自分で決め、選ぶべばよいのだろう?
「子どものため」は誰のため?
産まれて間もない赤ちゃんは周りの人から保護されなければ数日間も生きてゆけません。
小さくて、柔らかくて…
そんな頃から育てているとはじめはひとりではできなかったことも一つ一つ乗り越えて、できることが増えてゆく様子を見て成長を感じる。
将来は立派に自立してほしいと思いつつも、いざそうなると少し淋しいような、いつまでも守ってあげたいような。
よちよちとキッチンに近づけば火元や刃物から離してやり、
木の葉が色付く肌寒い日には厚めの服を着せてやる。
でもいつか、それもしてあげなくて済む時が来る。
その子は、その日の天気に合わせて”自分で”、自分の着るものを”選ぶ”ことだってできるまでに成長する。
…でも、ほやほやの小さくて柔らかな赤ちゃんの頃から手をかけてきたこの子。育ててきたおとなからすると成長はあまりにゆっくりとしたグラデーションで、
ある朝、突然にその子から
「では、今日から全部自分でできますんで!今までありがとうございました!お世話になりました!」
と告げられ、昨日までの子どもが一夜にして自立したおとなへと成長する。
なんて分かりやすい境目なんて見えない。
夜も22時をまわれば「早く寝なさい」というのも、成長期のこの子を想ってこそ。
家族揃って食卓につくことをこの子が拒否したときには、
「ああ、学校では集団生活を送れているだろうか」と気をもむ。
進路で迷っているならばアドバイスを与え、導いてやりたい。
「お父さんは地元の高校がいいと思うぞ」なんて。
あなたが送るのは、どんなメッセージですか?
おとながその子のため、”良かれ”と決めてあげることや選んであげることは、
その子が自分で決める・自分で選ぶ機会を奪っていることにならないだろうか。
何かを「決める」「選ぶ」には自分の頭で考えなくてはならない。
その考える力まで奪ってしまっていないか。
自分で決めて、行動する。
人生、経験のないことだらけ。失敗はする。
そこで
「あれ!」とか
「うーん、こうすればよかった」とか
「どうすれば解決できるだろう…」とか
考えて、感じる。
考えることができるのは、本人だけ。
感じることができるのは、本人だけ。
代わりはいない。
「子どものため」と差し伸べた手は、時に「わたしは、あなたには自分でできる能力はないと思っている」というメッセージとなることがある。
自由と安心
では、手を差し伸べる時、それはいつか?
それは、
本人が求めたとき。
それまでは見守る。先回りして何か言いたくなっても少し辛抱。
–
そうやって見守ってばかりいたら、放っておいているのと同じではないか。
放っておいたらわがままで横暴な人間になってしまわないか。
そんな声が聞こえてくる。
心配になる気持ち、わかります。
「自分は放置され、わがまま放題」か「自分の意思・選択を尊重されている」
このふたつは”自分の好きにできる”、というところが似ているようで、無言のメッセージを受け取る本人にとっても正反対の意味となります。
だからそこは明確に、言葉と態度で伝えてあげる。お互いテレパシーが使えるわけではないから。
「そっか」
「もし助けが必要な時は言って」
いざという時は自分で決めてもいい、先人たちにサポートを求めてもいい。それすら自由。
「あなたは自由だよ」「安心して大丈夫」のメッセージ。
そんな風に、みんなが子どもの時に安心して自由でいられたら、
もっと自分で決められることが多かったら、
どんな世の中になるでしょうか。
自分の頭で考え、他の人も自分の頭で考え選択する力があるとわかっている。
お互いに承認している。
それがスタンダードな社会。
みんながそれぞれ、自分自身でいる。
わたしは、そんな時代が来ると本気で思っています。
魔法使いがこたえを待っている。
「さあ、子どもの頃にもどりますか?」
どう、こたえよう。
そのこたえの理由はなんですか?