周りの大人の反応【母親編】 – 学校に行かなかった頃3

お子さんが「学校に行きたくない!」と言い出したら、どんな反応をするでしょうか。

「え!どうして行きたくないの⁉︎ いじめられているの?」と率直に理由を聞く、
「ふむ、そんなこともあるのかな」とまずは受け止める、「自分たち大人が甘やかしすぎたのか」と責任を感じる…

うちの場合、
「不登校の子が増えているとは聞いたことがあったけど、まさか我が子が…」と驚いたよう
でした。

わたしが「行かない」意思表示をした時に親や小学校の担任の先生はどのように反応し、また対応していったのか。

1990年代のことなのでそれから約20年。現在の公立小学校の対応や基準に当然変化はあり、時代や自治体、地域や家庭の文化の違いはいろいろありますが、いち当事者として当時を振り返り、記憶しているなかから周りの大人の反応をと【母親 編】と【先生 編】の2回にわたり綴ります。

今回は【母親 編】として両親、特に母の反応と、「これが辛かった」「もっとこうだったら…」といった視点からも。

このブログに書かれていることは一つの実例です。あくまでもりさ個人の体験と主観に基づいています。
不登校の当事者を直接ご存知の方も、そうでない方も、当事者の方々にそのまま当てはめることはできない、ということをどうかご理解ください。

「なぜ、この子が?」

自分にとって主に接する周りの大人とは、母と当時の担任の先生でした。
わたしが登校を拒否しはじめた当初、両者とも最初の反応は「なぜ、この子が?」だったと思う。

なぜなら、明るく活発で学校の勉強もスポーツも一番よくできる子のうちのひとりだったから。友だちも多く、どちらかといえば気も強いほう。人並みに友だちとのケンカもしたけど、ずっと引きずって思い悩むでもなかった。
だから、自己肯定感が低い、気が弱く自分が出せず苦しい、学校にいても友だちがいなくて孤独などの様子は見られなかった。

親の反応… 特に母!

子どもと一緒に過ごすのは母だった

我が家は両親プラス三姉妹の核家族。ワーク・ライフ・バランスも何も、そんな言葉は誰も聞いたことがない1990年代の日本。
父親はいわゆる働き盛り三十代後半。帰宅は決して早くなく、母も働いてはいましたがおのずと母親と接する時間が長くなります。

時代は変わりつつあり、パートナーシップや働き方の多様性問いった考えが少しずつ日本でも広まってきています。

とはいえ平成21年にされた調査で、「父母の仕事の種類」の項目では父親の98%が働いているのに対し、母親の40%が働いていないと回答しています。
また、「父母の仕事からの帰宅時間の状況」(回答者数 父:1117人 母:1334人)では
6時前に帰宅する母は277人で父は136人と約2倍、
さらに4時前に帰宅する母は125人で父は8人と約15倍。

母親が早い時間に帰宅し、家庭内で子どもと接する時間が長い世帯が多数であることが伺えます。
りさの育った家庭も母が家にいるのが普通でした。

参考:
厚生労働省 全国家庭児童調査
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/72-16.html
平成21年度 結果の概要
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001yivt-att/2r9852000001yjc6.pdf

新説!「不登校前世決定説」にもう笑うしかない

母の性格は、一言あらわすと「ぽかぽかの太陽」。
赤道直下のキラギラと照りつけ一瞬でメラニン色素を生成しなくてはならないような太陽光線ではなく、やわらかな光で晴れの日は半袖も薄手の長袖もまあ、ちょうどいいかな!という強さの光線。
私たち姉妹は彼女の温かい太陽光に包まれ、なかなかいい感じに光合成をしてすくすくと成長していました。

幼いわたしがおぼつかない足を絡めて転び泣けば温かく抱きしめてくれ、夜に寝る前には好きな絵本を読み聞かせてくれ、
テレビのニュースで感動的なエピソードが放映されれば視聴開始5秒で涙を目に浮かべることのできるような、そんな人。
(一度作った料理と同じ味は二度と出せない、一期一会の手料理のおまけつき)

お腹を痛めて産んだ三人姉妹。みんなに平等に愛情をいっぱい、いっぱい注いで育ててきたはず。

子育て開始から10年と少しが過ぎたあるとき、次女が「学校に行きたくない」と言い出した。

「はあ!? 子どもがなーにを生意気なこと言ってんだ!いいから学校に行けー義務教育なめんな!」と家からつまみ出す。
…なんてことにはなりません。なんせ「ぽかぽかの太陽」ですから。
だからといって、
「ああ、そう。行きたくないなら行かなければいいよー」
と二つ返事でいう超自由主義の自然主義のヒッピーでもない。

他聞にもれず、わたしの母が抱いだのは
「なんとか学校に行って欲しい。」という気持ち。

「いいから行きなさい!」
「なんで行きたくないの?」

不登校を経験した親子間ではお馴染み(?)のやり取りが繰り広げられました。
どうにか学校に行かせようと、あの手この手でアプローチ。
はじめは数日に1日行かなかったのが、2日になり3日になり…

行かない日の割合が増えてゆきました。

朝、登校時間の少し前からトイレに立てこもり、
しまいには
「りさが今日学校に行かないってことは、生まれる前から決まってたの!!」
不登校前世決定説を唱え出す始末。
この時ばかりは
「…はは そうだったんだー」
とトイレのドアの向こう側で力なく少し笑う母の声がしたのを覚えています。

毎朝、玄関先に娘を迎えに来るその友だちに
母は「ごめんねー、先に行っててね。」と告げる日々。

そして数ヶ月後、ついにその朝が来ました。
「りさはもう学校に行かないから、明日から迎えに来なくていいよ。」

母も父も悩みに悩んだと思います。

何がいけなかったの?
どうしてこうなったの?
いじめられてるの?

本を読み、人に相談をし、我が子の理解できない行動をそれでも少しでも理解するために勉強。
わたしにも、様々なアプローチをしてくれました。それについてはまたいつか書こうと思います。

わたしったら母、父、両方にとって人生の試練になってしまったなあ。(今も苦労かけています。)

これが辛かった

りさ「行きたくない!」
母「行きなさい!」
りさ「やだ!」
母「どうして!?」
りさ「ギャアーーー!!」

この永遠と続くやりとりが、母親とわたしのお互いにとって一番辛い時間だったかもしれません。

りさの学校に行きたくない、という意思はガッチガチに固く、
お爺さんが芝刈りに出かけ、お弁当にとお婆さんが持たせてくれたおむすびが転がり行き着いた先が鬼の昼寝の現場でおむすびに気付かず寝返りした体重360kgはあろうかという鬼の下敷きになり相当の圧力で固められたおむすびがそのまま冬の間湿度5%のからっからの風にさらされて三ヶ月、カチカチの米の塊となったところにさらに九ヶ月間乾燥に乾燥を重ねてガッチガチとなったそのものの如く。

ガッチガチの乾燥おむすびの意思は変わらないのだから、


・意思に反すること=学校に行かせる
・意思を変えようとすること=学校に行く気にさせる

どちらにしても衝突は避けられませんでした。

学校に行くのはいや、だけど行かないと衝突、
行っても地獄、行かずとも地獄のどこまでも続く苦しみの衝突ループにはまり
費やしたエネルギーは、母とわたしの2人分を合わせ電力に変換する技術があったならばわが家で使う照明器具や洗濯機や掃除機を動かす電力くらいは余裕でまかなえたかもしれない。

とっても、疲れました。
わたしにとっても母にとっても。

その朝、
「りさはもう学校に行かないから、明日から迎えに来なくていいよ。」

母がいつものようにわたしを迎えにきた友人にそう告げるのを、わたしはリビングから聞いていました。
その時の解放感といったら!

心の声〈よおっしゃああ〜〜!!!〉

その日から、毎朝の不毛な争いをしなくて済むんだから。
ほっとしたやら、それこそ「解放」された気分でした。

もっとこうだったら…

これは、過ぎたから言えることなんだと思います。
それでもあえて言うならば、

もっと苦しみの衝突ループをやめるのが早かったなら…

保護者や先生がその子を無理に学校に行かせようとか、どうやったら行く気になるのかとか、一生懸命に考えるのはとってもわかるんです。
わたしの母もそうでした。
でも、『学校に行きたくない、強く変わらない意思』を変えようとするほど衝突は大きくなる。

ー 辛い時間は短く済んだに越したことないんだけどな。

そう言ってしまうのは、ちょっと乱暴でしょうか。
「学校に行かせようとしなくていい。」と聞こえますか。

20年経ちじっくりと振り返られるほど落ち着いた今、冷静に、できるだけフラットに見つめた結果。
そこにある正直な言葉です。

次回の【先生 編】では不登校の原因や理由を聞くことについても一考しています。

あなたの貴重なお時間、ありがとうございます。
では、また^^[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row]